俺はど田舎で生まれて育った
幼いことに両親は離婚して母子家庭だった
たまに親父とも会ってた記憶はあるけど、小学生に上がる前に事故死したそうであまり記憶はない。
いじめもあって不登校になりかけたけど、なんとか持ち直して割と楽しい学生生活だった
田舎には珍しく母親は教育ママだった
いい大学に入るために小学生から塾が通いだった
勉強は嫌いだったけど、部活とか自由にしせてもらったから俺も母親に言われるまま地元の国立大を不満なく目指していた
>>16
一応葬式はしてるから死んでる
でも事故死じゃなくて自殺じゃないかなと思ってる
今となっては知る由もないが…
でも、高校の時にとある出来事で都会に行きたいと思った
それまで明確な目標もない自分の人生で唯一できた目標…都会に行って働きたい思いが強くなった
でも、母は都会にいいイメージがなく地元の安定した仕事や地元の大手企業に就職することを望んでいた
ここから俺と母とバトルが始まる
都会に行きたい俺 vs 地元で安定を求める母
高校の進路も自分の考えで提出して親子喧嘩が始まった
俺は都会で働くにはどうすればいいかをずっと考えて喧嘩が増えていった
この喧嘩状態は半年近く続くことになる
高校生の俺は金もなかったから、学費を稼ぎながら都会の大学に行く方法を模索してた
あまり頭はよくながったけど計算的には住み込みのバイトで暮らしつつ大学に行ける方法を見つけた
母に仕送りなしでも家を出て行くことを告げて、母は折れた。半年近い親子喧嘩は、それで終焉した。
田舎に母を残して行く罪悪感はあったけど、都会に行ける可能性ができて俺は歓喜していた
折れた後の母は俺のその後を全力で応援してくれた
東京までは行かなかったけど、近くの地方都市の大学に進学した
仕送りとバイトで貧しくもない学生生活だった。
頭の悪かった俺はずっと勉強してた。学生時代は自宅か大学のどちからにいる生活だった。
この時は女より酒より東京に就職したい一心で勉強してた
大学も特に問題ない時間を過ごし就職準備をしてた
この時の目標は東京のIT企業に就職することだった
ITのとある分野にはまり込んでたことと、日本で一番の都会で働きたいと思っていた
とある大手に就職したかったけど学歴か俺の実力の問題で、採用されなかった
だけど、その企業が好きで子会社への就職決まった
俺は都会で働けることに喜びを感じた。
母も喜んでいた
東京は実家からかなりの距離があり、母を1人にさせている罪悪感はあったが、その当時は達成感で満ち溢れていた
子会社で働き始めた
最初の仕事はフロアの掃除だった
今思えばありえないが当時は東京で働けること、IT業界に働けることが楽しかった
会社の過去の案件を調べて学生では学べないようなことも独学で学んでいった
この時は働くことが楽しくて実家に帰ることも年に一回あるかどうかだった。
会社で雑用をしながら、大きめの案件のドキュメントを見て調べて理解することに全力を注いでいた
一年もたつと小さい案件を任せられるようになった
2年目ごろには中規模案をするようになり、社会人のイロハも学んでいた
社内での評価も良い評価をもらった
ちょうど東京で出会った女性と恋人になり仕事もプライベートも順風満帆だった
目指していた自分の夢が叶ったと思った瞬間だった
3年目に業績が認められて親会社の案件を担当するのがメイン業務だった
給与や待遇は子会社だったけど、さいやうされなかった親会社の案件を担当できることに喜んでいた
案件規模も大きくなり仕事は更に忙しく実家に帰る頻度も減ったけど、当時は残業も休日出勤に苦もなく喜んで働いていた
恋人とも同棲を始めて給与もあがり結婚を意識し始めていた
5年目辺りには親会社の案件ばかりを担当していた。
大変だったけど、仕事のやり方も自分のやり方が見つかり、順調にこなしていた
親会社でも一定以上の社員しか出来ない仕事もして、自分の成長が嬉しかった
このころはお互いの両親にも付き合いを報告して同棲をしていた。
嫁にプロポーズをした
色々あったけどプロポーズを受け入れもらい結婚することになった。
互いの親も祝福してくれた
ささやかながら式を挙げて俺は伴侶と生きることになる
1人にさせた母のためにも孫を早く抱かせたいと思っていた
結婚から数ヶ月後、母が倒れて入院&手術をするとの連絡が入った
ちょうど大規模案件の途中で、別の人にひきついでもらい俺は地元に帰った
手術には色々手続きが必要なので至急病院に来て欲しいとのことだったが、その時は病気の詳細などは話せてもらえなかった
病院で直接話すとの連絡のみだった
病院について入院中の母に会った最初の一言は
母「あなた、誰?」
だった
意味がわからなかった
人生で頭が真白になるということを体感した瞬間だった
ベットに寝ている母は、怯えるように俺を見ていた
担当医がきて説明を聞いた
とある病で母の脳の一部は無くなっていた
俺のことはおろか自分のことすらわからなくなっていた
進行性のある病で手術をしないと手遅れになるということだった
よくわからないまま、手術の手続きを行い書類にサインをした
何枚も何枚もあった
色々書いてあったけどこの時の俺には読んで理解する余裕もなく、ただただサインしていた
手続きが終わって一服しに行った
突然涙がこみ上げてきた。泣いても泣いても止まらなかった
なんで?なんで?だけが頭をグルグルしていた
一晩泣いた
人生で一番泣き続けた
こんなに涙が止まらないことを初めて知った
嫁に報告をした。当分は東京に帰れそうもなかった
会社にもとりあえず手術が終わるまでの休暇延長の申請をして了承を得たけど、この時は仕事のことは頭になかった
手術は無事に終わった
待機室で待ってる間は走馬灯のように自分の人生を振り返っていた
地元で暮らしていればこんなことにならかなかったのか?
もっと実家に帰っていればこんなことにならかなかったのか?
どうしたら、この局面を防げたのか?
自分の行いが悪かったのか?
自問自答を数時間繰り返していた
数時間後、手術は無事に終わった
医師より説明があった
医師「手術は成功きました。しかし、損失した機能の回復は時間がかかります。
退院後も当面は24時間態勢で介護が必要になります」
俺はまた頭が真っ白になった。
嫁はどうする?仕事は?どんだけ介護をすればいいのか?
その後は?
色々な考えが目まぐるしく回って、また涙が溢れていた
一晩たったあと、担当医ともう一度話をした
どの程度の期間が必要なのか?
どの程度の回復が見込めるのか?
東京への転院は可能か?
考えられる可能性を全部ぶつけた
回答はあやふやだった
期間はわからない
どの程度回復するかもわからない
一つ確定していたのは、認知症がひどく長距離移動は不可能ということだった
その時頭に過ぎったのは、「退職」だった
そのままの内容を嫁に報告した。
東京に帰れる可能性は低いこと。
とりあえずある程度の期間、介護が必要なこと。
そして、仕事を辞めようと思うこと。
泣きながら言葉にならない言葉を伝えた
ゆっくりと聞いてくれた嫁には、感謝しかない。
嫁は理解をしてくれていた。
幸いにも嫁は正社員で働いていたので、生きていく心配はなかったのかもしれない。
俺も嫁が働いていたことに安堵していた
そのまま上司に報告をした
泣きながら、状況の説明と、辞めさせてください。というのが精一杯だった。
上司からの一言は、限界まで席を残せるようにするから少し待てという返答だった
その後、会社から半年ほどの休暇を得れることになった
とりあえずホッとして、介護に備えるために一旦東京の家に帰った。
長期戦になることは医療素人の俺でも明白だった。
引越しのような荷物をまとめて地元に帰った
嫁は仕事もあり一緒に移動することは一旦保留とした。
介護がどの程度大変なものか想像もついていなかった
地元に帰って母が退院した後、介護生活が始まった
介護生活は想像を絶するものだった
トイレが分からない母
深夜徘徊で捜索する日々
部屋に皿が飛ぶ
幻覚で発狂する日々
こんなことは日常茶飯事だった
一番辛かったのは「お前は悪魔か?なんでこんなことをする!?」という言葉だった。
それはそうだ。どこの誰とも、自分のことモアわからない状態で部屋から出ずにずっと寄り添う男がいる
母からは俺が頭のいかれた犯罪者にみえていたのうだろうことは想像できた
しかし。その言葉をぶつけられるたびに挫折しそうになった
そんな介護生活が目まぐるしく続いた
俺は日々を過ごすのに精一杯で介護以外ことをすることも分からなくなり半年が過ぎた
会社からの連絡で、「これ以上引き延ばすことは無理だ」との連絡が入った。
上司と同僚に謝りひっそりと退職した。
嫁にも泣いて謝った。
この頃に人生が真っ暗なもののようにかんじた
その後も介護生活は続き一年がった
幸いなことに母は自分の名前と俺が息子であることは認識できるようになった
しかし、まだ目を離すことは難しく俺は働くこともなく一年という年月が過ぎていることに愕然たした
この時に嫁と離婚して解放した方が良目の幸せになるんじゃないかと葛藤していた
貯金を切り崩し、一緒に暮らすこともしない俺になんの価値があるのか?を考える日々だった
嫁にその旨を打ち明けた。まだ年齢的にやり直せる。別れるなら今しかないという思いだった。
それとは裏腹に別れない。という嫁の回答は俺を余計に苦しめた。
この時は、何もかもが来る感じていた。離婚も自分を楽にしたい為だったのかどうか更に悩むことになった
そんなあやふやな関係のまま2年が過ぎた
母は少しの時間なら目を離しても大丈夫そうだった。
介護保険でヘルパーにもしてもらえるようになった
貯金も底をつきそうなタイミングで生活保護の相談もしていた時期だったが、なんとか短時間のアルバイトができるようになった
アルバイトをしながら更に2年が過ぎた。
母の回復度合いは終わっていた。
深夜徘徊もなくなり、落ち着いて過ごせるようになっていたが、ここからのさらなる回復は難しいと言うのが、医師の判断だった。
ここで地元に嫁を呼び一緒に介護をするか
東京の施設に母を入所し自分が社会復帰するか
の二択を迫られていた。
施設の空きはあったが、月20万という大金が必要だった。東京に連れて行ったところでこの金を払えるのか?
でも、嫁を介護に巻き込んで生活出来るのか?
どれを選んでも辛い生活になることは明白だった。
4年という介護の中で、母を◯せば楽になる。
そんな気持ちを抱いたことが幾度とあったからだ
嫁とも相談し、施設に入れることになった
嫁も働き、俺も正社員になれば払えるだろうという考えからだった
数ヶ月後、また東京での生活が始まった
俺の使命は施設費と生活費を稼ぐことだった。以前の仕事では到底賄えない。
次の転職ではインセンティブが大きな営業へ転職した。
人と話すのは苦ではなかったが営業としての俺の評価は低かった。
上がらない売上、不慣れな職種、課内の圧力、様々なものが押し寄せた。
ギリギリの生活が1年続いた後、起き上がることができなくなっていた。
嫁に引きつられて行った精神科医から鬱病との診断を受けそのまま会社を辞めることにした…
自分が鬱病…信じられなかった
疲れているだけだと感じていた。
その後は嫁がコツコツ貯めていた貯蓄を食いつぶしながら、鬱との戦いが始まった
薬の副作用、やる気が起きない日々、母の病気、生活費…何を考えても当時の自分には絶望しかなかった
あの時、母を◯していれば。自分もそのまま死んでいれば。
そんなことばかりを毎日考えていた
嫁に支えられる生活も一年が過ぎた
このころには、笑えるようになっていた。
不安もあるが、次になにかやろうと。金を稼ごうと前向きな気持ちになれるようになった
鬱治療はしつつ、職探しを始めた。
ハローワークに通い、民間エージェントを使い応募書類を送る毎日だった。
しかし現実は厳しかった。
ニート状態、経験の浅いおっさんを採用する企業は存在しなかった。
面接にこぎついても、採用までは至らなかった。30社ほど落ちた。
やる気はあるが経験が追いつかない。学歴も足りない。
新卒の就活より厳しかった。
一度レールを外れると元に戻る大変さを突きつけられた気持ちになった
嫁の焦らなくていいよ。という言葉ですら苦痛に感じるほど辛かった
正社員じゃなく、派遣や契社員も頭に過ぎったが、どう考えても金が足りない。
嫁の貯金にも限度がある。
母の施設費がいつまで払えばいいかもわからない。
そんな中で不足する給与のところに働くことに意味があるのか?と感じた。
働いても働いても赤字ではないか。
転職は諦めた。世の中が正社員としてのおらを必要としていないことは明白だった。
世の中からいらないなら、必要になる部分を見つけようと自営を始めた。
出来ないことも出来るといった。
わからないことは徹夜で学んで、細々と稼いだ。
一つの仕事が成功すると次の仕事が来た。
次の仕事が成功すると他者から依頼が来た。
自営を始めて2年。
生活出来る金額を稼げるようになった。
施設費も払えるようになった。
1人でコツコツとしているが、とりあえずは食えている。
借金も完済できた。
1人のため多くは稼げないが、サラリーマンより時間も金も融通が効くようになった。
元同期から連絡が来た。他の同期も集まるから来ないか?という誘いだった。
久々の誘いで昔話ができる人も少なかったため今日参加してきた。
三十代も半ばから後半の自分たち。
大手に転職した人
役職付きになった人
社長になった人
そのまま元の会社で働いている人
多くの同期は、世間一般の成功者になっていた。
みな、優秀だった。働いていたときはみんなに追いつきたくて仕事をしてた。
自分が目指していたところにみんなはいってしまったと感じた
聞いてるぞ
自分はどうだろう?
自営という不安定な職
行方の見えない母の施設費
終わりの見えない鬱治療
子どもを作るのには手遅れになった年齢
結婚後まともな幸せを作れなかった嫁への罪悪感
そんな思いが一気に押し寄せた。
帰宅後、
自分の人生はなんだっのか。
これからの人生はなんなのか。
どこかで、何かを間違ったのか。
自分の生まれた時から今までを振り返ってると涙が止まらなくなってスレ立てた。
ここまで聞いてくれてありがとう
たまには自分の脚で歩いて散歩しろよ
>>87
それはかる。
嫁を中心に書いたけど、元上司や同僚からも支えてもらってた。
人に恵まれてたから、俺は死なずに生きてるんだろうと思う
読んでくれてありがとう
母1人、子1人だからな。切り捨て的なことできなかった
こちらこそ最後まで書いてくれてありがとう
全体的に読みやすかったし現実で会ったら優秀な人なんだろうなと思った
自分は地方在住だけど半分ぐらいの都府県は行ったのもあってか東京には憧れなかったタイプだし新鮮だった
それじゃおやすみ
上手い鍼師に直してもらうのも有り
都会に出たいって気持ちをもったしまったことが人生の間違いだったのかという思いがずっとある
実がを離れずに暮らしてたら、未然に防ぐことができたかも…ここまで不幸を巻き散らかせず生きていけたのかも
そんな思いを背負いながら生きていくことになりそうです
社会のレールからは多少はみ出たかもしれないけど人間としてはずっと真っ直ぐを向いてるような印象を受けた
その境遇で母親なんて居なければと思ったことだって生身の人間なら当然だし
結果としてそれでも人間として逸れてないから十分すぎるほどかっこいい
少しずつでも良い方向に向かっていくといいな
頑張りすぎるなよ
>>94
ありがとう
四十間近で言うのもあれだけど、社会のレールは思うより厳しい。
世間の目は、自分の人生を考慮してくれない。
頑張り過ぎない程度に、幸せにられるように何かを探していけるようにします
>>96
正直大学あたりの境遇が凄く似通ってて俺も将来が怖くなった
それでも俺は全然真面目でも真っ直ぐでもなく遊んでばっかりだったから筋は通ってないわけだけど
俺もたった一人の親で散々わがままに付き合ってもらったし今もそうだから>>1みたいに母親を大切に出来ればなって思う
けどもうしばらくは元気で居てもらわないと俺も母親もどうなることやらわからないな
人生ってままならないもんだと本当に思う
オレは母が糖質になって数日家出したりいろいろ苦しい時期はあったけど大したことは出来なかった
それとは全く関係ないけど仕事もうまくいかず底辺で働いている
あなたには価値があるので投げやりにならないでください
引用元
管理人からひと言
ITあんまり関係ないけど、思うところがあったので・・・
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中年になってこんなんなったら人生終わるよなあ